46題 民闘連からお呼び出し

 民闘連とは「民族差別と闘う連絡協議会」(現在は組織を改めて「在日コリアン人権協会」)のことです。

「あの本(拙著自費出版『「民族差別と闘う」には疑問がある』)のことで話を聞きたい。3月某日に来てくれ」

 こんな電話がかかってきました。民闘連から反応があったのです。民闘連のごく一部には出回っていたのですが、なかなか反応がなく、おそらく無視されているのだろうと思っていたのですが、そうではなかったのです。電話によると、民闘連側は数人で会いたいとのこと。向こうは数人でこっちは一人、おそらく向こうはお互いにフォローしあいながら攻めてくるだろうから、一人で対応するのはちょっとしんどいかな、と思いつつ、指定された場所に行きました。

民闘連の方はN・F・S・Kの4氏。十年ぶりくらいの懐かしい顔もありました。

 ちょっとした挨拶のあと、まず何故あの本を出したのか、どれだけ印刷したのか、をきくところから始まりました。

 「かつて私が民闘連に関わったとき、どうしても馴染めないというか、違和感を抱くところがあった。その時はまとめられなかったが、いつかはそれを含めて在日朝鮮人問題について自分なりにまとめようと思っていた。」と経緯を説明し、「200印刷して友人関係を通じて100数十ほどがさばけた。」と言ったら、3人が一斉にその数字をメモしました。本の影響をかなり気にしているようでした。

 一番しつこく何回も聞いてきたのが、「民闘連」という名前を本のなかに何故出したのか、ということです。つまりこの本が民闘連に迷惑がかかっているというのです。F氏に至っては「ここの民闘連の代表者を知ってるか、この僕や。民闘連の綱領を知ってるか。それを知らないで何故民闘連の名前をだしたのか。」と訳の分からないことを言ってきました。

 K氏は、出版の自由があるから何を出してもいいのだが、民闘連の名前を出して、民闘連とはこういうものだと思われてしまう、ここに書かれてある人物の名前を何故書かなかったのか、と言います。どうやら彼は私が民闘連について書いた具体的事実(これは私が関わった時のことですから十年以上も前のことになります)はフィクションだろうから具体的な個人名は出てくるはずがないと思っていたようです。しかし民闘連の名前は出すな、個人の名前を出せ、という主張には首をひねってしまいます。

 かつて関わった民闘連での体験に基づく疑問等を書いたことが、今の民闘連に迷惑がかかる、という論理が理解できませんでした。昔の民闘連はそういうこともあったなあ、で済ませることができるものだと思うのですが、分かってもらえませんでした。おそらく昔の悪しき体質が今も残っているからだろうと思いました。

 またこの本が大阪の民闘連で話題になり、「つじもとなる人間は一体どんなやつだ」と問い合わせが来たり、「古いことを今ごろになって言い立てて何になるというのだ」「題名からして、闘わずして差別がなくなるというのか」などという反発があったそうです。こういう話を聞くと、民闘連内に結構波紋があったということで、ちょっと自信を持ちました。

 総じて彼らはこの本を、我が民闘連を誹謗中傷し、運動に冷水を浴びせるものと受け取ったようです。本をよく読んで頂ければ分かると思いますが、民闘連という組織だけをターゲットに書いているわけではありません。在日朝鮮人問題の全般にわたって疑問と批判を呈しているものですが、民闘連から無視できないという高い評価をいただいて、これも有難い。

 しかし彼らは私の本をきちんと読んでいないようでした。「民闘連」の名前の出てくる部分を読んで、民闘連が誤解されてしまうと批判します。内容に即して、この論理の進め方は間違いだ、あるいはそのような事実はない、というような批判なら有益なのですが、そうではありませんでした。「反論されたいのか」「全面展開しろというのか」などという発言を聞けば、中身を議論しようとする気持ちはないようです。これにはがっかりでした。

 一個人の自費出版物で大した影響力もないのに対し、民闘連は何十人か何百人かの人員を擁し、全国的に大きな力を持っています。私の本に対しては反論を書いて配ればどうってことないのに、何か右往左往しているような感じを受けました。

 もう一つ私の勝手な想像ですが、彼らは異論ある人と正面切って論争したことがないのではないか、と思いました。「差別と闘う」という「正義」を振りかざせば、大体の人が黙ってしまうか守りの姿勢になってしまうものです。そんな人ばかりを相手にしてきて、自分らと違う考え方や自分らに対して批判する人と意見を闘わせ合って学び合っていこうとする姿勢がないのではないか、と思いました。

 結局、民闘連の名誉を守ろうとする観点からの批判に終始し、本の内容に立ち入ることなく、この日の集まりは終わりました。

 何とも消耗な時間を費やしました。

 次回は大阪でやりたいとのこと。向こうの人数は多くなるようです。本を熟読してもらった上で中身の議論になればいいのですが、果たしてどうなるものでしょうか。

 

(追記)

 これは8年前の出来事です。直後にミニコミ誌に書いたものの再録。

民闘連側は「次回は大阪でやりたい」と言いましたが、結局は何の連絡もなく、今に至っています。

ところで民闘連は1995年に「在日コリアン人権協会」となりました。この組織については、下記のような問題が発生したという情報があります。さらに2002年度活動方針には、「活動方針」とは言えないような意味深長な文言があります。

この二つの資料を紹介します。

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資料@

問題の経緯

 一昨年、雑誌「新亜」では、コリアン人権協会の体質について問題提起したことがある。ある飲料メーカーの工場で発生した差別発言が原因となり、コリアン人権協会がその企業を差別企業だと攻撃、大金を取得した経緯を紹介したのだが、このとき新亜は、コリアン人権協会に関わる関係者から「ありもしないことを書いた」と厳しく攻撃された。だが、大金が動いた経緯を企業自身が認めたからこそ、記事にしたのだ。このとき、1千万円以上もの大金が「人権研修費」として在日コリアン人権協会の関連団体であるKMJに渡っている。

 

 当時、人権運動に真面目に携わっておられる人たちほど、自分達の組織上部で何が行われているかを理解していなかった。ところが今回、同団体の副会長を務める宋さんが以下の文章を発表した。そしてこの裏には、前述企業との更なる癒着問題や、他の企業との不透明な金銭の流れも問題視されている。飲料メーカーの場合、その企業の尼崎工場解体工事を徐氏関連の小さな会社が3800万円で請け負ったと言われているが、現実に工事に携わったのは、大手の建設会社であることも判明している。

 

 この件についてはただいま取材中であり、いずれ近いうちに報告できると思う。こうした不祥事が発生すれば、結果として真面目に取り組む他の団体、組織、そして人々の善意まで疑われる事になってしまう。(鈴木雅子)

 

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 私たちは、在日コリアン人権協会の会員として、同副会長である宋貞智さんの『在日コリアン人権協会』の組織正常化に向けての訴えに賛同いたします。

 

●在日コリアン人権協会副会長・全国在日コリアン保護者会副会長

  李美葉

●泉大津オリニの会代表・在日コリアン高齢者福祉をすすめる会

  大阪副代表・全国在日コリアン保護者会世話人 周貞子

●箕面トッキの会代表・全国在日コリアン保護者会世話人 金星令

●在日コリアン高齢者福祉をすすめる会大阪事務局長 趙豊子

●八尾在日コリアン保護者会事務局・

  在日コリアン高齢者福祉をすすめる会大阪 郭菊枝

●ソンチャバ子ども会 宋佳野

 

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                                200年8月21

関係各位

                            在日コリアン人権協会

                            副会長  宋 貞 智

 

「在日コリアン人権協会」の組織正常化に向けての訴え

 

 私は今、自責の念にかられています。それは3年半前に在日コリアン人権協会(以下、人権協会と言う)が内部で混乱した際、私の軽はずみな言動が大勢の仲間を傷つけ、若い有意な人材が去ってしまった事です。その結果、人権協会の腐敗体質を助長させてしまいました。今は、ただただ私の不明を恥じております。

 

 思えば5年前、民族差別と闘う連絡協議会(以下、民闘連と言う)が人権協会に移行し、徐ジョンウ体制の下、組織から日本人を排除したときから、運動が変質して行ったのではないかと私は思います。あえて言えば、徐氏が目指す組織は、人権協会という名の下、反差別運動を企業化することでした。

 

 在日の権利向上のための市民運動が、差別事象をネタに企業や行政にタカり、まるで利権漁りの様相を呈してしまったと思うのは私一人でしょうか。一般常識では考えられない高額な資金が、企業から研修費、パンフレット購入という名目で、人権協会に流れており、それらの具体的な出所や金額は理事会でも会計報告されたことはありません。

 

 なるほど私も、最初は立場の弱い在日にとって行政からの支援や企業からの運動資金援助は市民運動を展開する上で必要なものと考えました。しかし、運動の目的と手段が逆転してはとんでもないことです。今の人権協会はそれを否定することが出来ません。

 

 しかも、約3年前、人権協会が法人化される前に、営利の部分を抜く組織として、徐氏が取締役社長の株式会社コリアン イン ジャパンが設立されています。この株式会社の役員3人全員が、人権協会の副会長です。私もその中の一人で、徐氏により依頼され取締役になっていますが、同社の決算報告もここ3年間一度もされていません。

 

 同社は東京事務所をはじめ、八尾人権協会事務所、八尾サンポラム、生野サンポラムなどの物件の借主になっており、人権協会の資金の出入りはほとんど同社の名前で行っていますが、会社の内実は役員には正式に知らされていません。

 

 これらの実態は、徐氏と、監査役で人権協会同友会の事務局長のみが把握しているのです。組織の長であり、市民運動のリーダーとして、これらの事に対してだけでも余りにも無責任極まりないと言わざるを得ません。

 

 私が在日の運動に関わることになったきっかけは、今から約19年前、留学先の韓国で全国民闘連のベィ重度氏との出会いからです。当時の私は、自らの生い立ちや民族の問題に向かい合う事ができず、自分を見失い人生に失望していました。そんな時、民闘連の存在を知ったことで、もう一度自分を取り戻して生きて行こうと勇気つけられました。それから本名を名乗り、民闘連の運動に自分なりにかかわることが、私にとって『在日として生きる支え』となりました。

 

 それが3年半前、人権協会・社団法人化前のKMJ・KJ同友会の3人の各事務局長が突然辞表を提出し、また、職員全員と人権協会運動を担っていた主なメンバーが徐氏に対する抗議行動を始めました。

 

 当日、徐氏からそれを知らせる電話が私の自宅にあり、相談したいことがあるのですぐ会いたいと言われ、その日に会いました。徐氏から「今日、鄭早苗先生(現在の社団法人KMJの理事長)に会い、事情を伝えて欲しい」と言われ、その日の夜、京橋の駅で鄭先生と会ったことを昨日のように思い出します。

 

 しかしその時、一つだけ私にははっきりしていたことがありました。それはこのままでは徐氏体制の人権協会及びKMJが無くなってしまうことでした。私にとっての人権協会は地道な運動をすすめていく上で、大きな支えであり、また、徐氏に対しては在日の運動を担える人はこの人しかいないと絶大な信頼を持っていたのです。

 

 そのため、窮地に置かれた徐氏を救わねばとの思いで何の力もない私が必死で組織支援に動くことになりました。しかし一方で、出来る事ならほかのメンバーたちと会い、事情を聞こうとしました。しかし、その時の私は徐氏の立場でしか話ができずにいたので、彼らからは敵視され、これという話を聞くことができませんでした。

 

 また、当時の私は徐氏に対する信頼や評価は絶対的(民闘連や人権協会の中枢にいなかったので、運動の結果やその一面の情報しか入らなかった)なものがあり、例え彼らの訴えを聞いたとしても、それを理解するための情報も分析能力もなく、今思っても結果は同じであったと思います。

 

 当時の彼らの「もういいんです。今更話すこともありません」「徐さんはウソつきですよ。平気でウソをつきます」「人権協会やKMJは市民組織ではなく、徐商店なんですよ」等々の、あの時の彼らの話が抽象的であいまいなほどにしか感じませんでしたが、今の私はその主張の本当の意味が十分すぎるほど理解できるとは、なんと皮肉なことでしょうか。

 

 3年半前の混乱時、私は徐氏体制の人権協会やKMJを維持するために、人権協会に新たな副会長を複数持つことで徐氏を支えようと、福岡の仲間に声をかけました。そして、その副会長メンバーの中の『全国在日コリアン保護者会』会長や副会長にも、本人は嫌がっているのにも関わらず、無理に「このままでは徐氏が可哀想です。これまで在日の市民運動を頑張ってきた徐氏を守ってほしい」と説得し、無理やり人権協会の副会長になってもらい、その結果、オモニたちの支援を受けることで、徐氏の立場はぐっと持ち直すことになりました。

 

 その後、無事にKMJが社団法人の認可を受けたことは皆様もご承知の通りです。そして、今まで以上に地道な現場での運動を頑張る事で、人権協会の基盤も確固たるものになったのです。

 

 しかし、今や民闘連から移行した人権協会は、完全に昔の理想の運動体からは変質してしまいました。徐氏とは、人権協会の運営と運動の展開のやり方で意思の疎通が図れないことが増え、その都度、話し合いで問題を解決するための努力をして来た積りですが、徐氏にとっては自分の判断が絶対であり、逆に自分の考えと異なる意見に対しては決して受け入れようとしない態度には、幾度も愕然とさせられました。

 

 事ここに至り、人権協会は民闘連運動の精神を正しく継承しているとは言えなくなりました。まず、差別に立ち向かう同胞の運動の実態があり、差別者と粘り強く立ち向かって問題を解決していくのが本来のあるべき姿だと考えます。

 

 しかし、徐氏体制の人権協会は、差別事象を起した企業にどんな形でお金(解決金)を出させるのかを考え、それを目的化して、そのための運動を展開しているとしか思えません。実際、人権協会の理事であり副会長の私が、人権協会に何処から、どんな資金が入り、どんな活動に使われているのか全く知らされていないのです。

 

 この3年間、会計報告を受けた事は一度もなく、この間の理事会でもお金の話が別の理事から出たほどです。今年2月8日には、一人の副会長が突然辞任しました。その理由として大きくふたつ上げられました。

 

 一つは徐氏の自分を誇示する運動、当時者不在の運動のやり方についていけないこと。二つ目は人権協会はお金の面で「灰色」の噂があり、自分がそれに責任を取れないことがあげられました。その理事は、3年半前の三つの組織の職員や当時の人権協会の運動を担っていた人たちが、徐氏についていけないことを文章で訴えたことを引用して「最近、その文章を読み返し、一言一句がまさにその通りと思う」と、副会長辞任の思いを切実に訴えられました。

 

 二つ目の、資金面が「灰色」という件については、KJ同友会担当の理事から「お金の件に関しては自分も関わっているので自分を信じて欲しい。今は報告できる状況ではないが、時期がくれば報告できるようにする」との話でした。

 

 前者については徐氏はもちろん、他の副会長から特別に議論されることなく、ただ、まもなく総会なのでけじめとして総会まではこのままでいて欲しいとのやり取りでした。

 

 驚かれるかも知れませんが、理事会は全く本来の機能を果たしていません。今年1月の臨時理事会で人権協会の運動の現場を担っている会員数名から、理事会あてに徐氏体制の人権協会の対応の仕方が、あまりにも現場で頑張っている当事者不在のやり方であり、上位下達の現場の事情を無視したやり方についていけない主旨の文章が、各理事に送付されたことがありました。

 

 しかし、その声も理事会で取り上げられないままで、その後も人権協会としてその訴えに対する当事者との話し合いなどが持たれないまま無視されて、今日に至っています。

 

 徐氏は「組織」や「在日」のためにどうなのかではなく、「自分個人」のためにどうなのかで運動を進めて行きます。その中で自分の方針に従わなかったり、ややもすれば自分の立場を危うくする仲間に、対外的には手段を選ばないやり方でその仲間を「つぶす」工作を行います。そして、組織内では個人の性格批判を周辺にことあるごとに絡ませて伝えて情報工作を行い、ついには組織に居づらくし、事実上、組織から切ってしまうのです。このやり方で、今までどれほど多くの仲間達がつぶされてきたか知れません。

 

 それを象徴するのが徐氏が過去2回起した組織分裂です。はじめは5年前の「在日コリアン人権協会」の設立です。民闘連を自分個人の組織にするために組織改革の名の下で人権協会に移行します。その際、移行後の組織の「長」になるため、じゃまな人物を徹底的に個人攻撃し、運動の流れについてこれないように追いやり、他の仲間の批判を無視しながら人権協会を発足させました。

 

 次に2回目。3年半前の専従たちの抗議の騒動時でした。その結果は1回目と同様でした。そして、今は私がそのターゲットとなり、体外的にあの手この手で私の運動生命をつぶすのに余念がありません。そして、組織内では私の個人攻撃をしており、その姿たるや反差別・人権を訴える組織のリーダーとは本当にほど遠いものがあります。

 

 3年半前、人権協会の内部で混乱した際、私は徐氏についたのではなく、「組織(在日の反差別運動)」を守るために徐氏を支持し、その後の組織の立て直しに精一杯努力しました。もちろん、その時は在日の反差別運動を中心で担える人は徐氏のほか居ないと、一点の疑いもなかったのは事実です。しかし、今はそれが見事に裏切られ、3年半前の自分の判断が過ちであったことを、様々な事柄で認識させられ、その責任の重さに息が詰まる思いです。

 

 私は3年半前、間違った判断をした責任において、人権協会を本来の組織に正常化したいと決意しました。本来の組織とは、在日韓国・朝鮮人差別問題や人権問題を地域で実践しながら、広く日本社会に対して、民族差別は「悪」との認識をさせる取り組みに多くの人々が結集した民闘連運動の精神を正しく継承した組織のことです。

 

 真の意味での在日韓国・朝鮮人の反差別・人権を基調にした運動を展開したいと思っています。かつて、無念の思いで人権協会を去った多くの仲間たち、そして、日本人を含む大勢の心ある人たちが徐氏に対し、批判の声をあげています。今こそ改革の時期だと考えます。

 

 徐氏は在日の運動の混乱を招いた責任をとって、即刻人権協会の会長職と社団法人KMJの常務理事を辞任すべきだと考えます。そして、人権協会の正常化に向けて、関係者で協議していきたいと思います。

 

 まもなく21世紀を迎えます。一個の企業と化した人権協会を、今後反差別の原点に根ざした組織に再生させたいと考えています。どうか、民闘連関係団体をはじめとした関係者の皆様におかれましては、私の真意をお汲み取りいただき、私たちのこれからの行動を温かく見守っていただき、ご支援賜りますようお願いいたします。

 

http://www.tokyo-net.tv/index/anw/kakologu/jinkenkyoukai.htm

 

(コメント)

資料@は、以前に公表されたのを保存していたもの。今改めてHPを開いてみると、少し書き換えられています。

差別企業から1千万円以上とった話や役員親族会社に3800万円もの工事の発注をさせる話、取材者が「もし私が、交通事故とか、東京湾に浮かぶことがあったら、この事件が裏にあると考えていただきたい。」と書いていることを読めば、この協会がいわゆる「左翼ヤクザ」の様相を呈しているようです。

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資料A

人権協会 2002年度活動方針

1.私たちをとりまく状況

 1995年在日コリアン人権協会結成の基本理念であった在日コリアンの自主的運動の実現は、今日もなお厳しい状況にさらされています。世界的にグローバル化の美名の下、一超大国による強権支配が強まっているように、日本国内においても民族の主体や自立を押しつぶす動きが「共生」という名の下に、ますます加速化されようとしています。このような状況下、私たち在日コリアン人権協会はかつてない厳しい局面に置かれています。具体的には行政、企業、社会団体との関係が弱まり、ときには排除される事態も経験しました。そのため、差別事件との闘いにおいても、影響力の低下を余儀なくされています。また、運動を支える基盤としての財政状況も悪化し、早急な立て直しが必要とされています。

 このような状況の中で、私たちの運動を守り抜くために、すでに東京事務所の閉鎖をはじめとした改革をすすめてきました。今私たちにとって大事なことは、真に大切な実践、事業を守り育てること、厳しい状況を自覚して行動すること、そして何よりも私たちが取り組んできた実践が今日の時代にあっては、少数者ながらも極めて貴重なものであると誇りを持つことです。

 強者による系列化と自立・対等を求めるものに対する攻撃はますます強まり、反差別運動の理念が圧殺されようとする冬の時代に、私たちは未来を展望しつつ確かな実践と譲ってはならない理念を守り、一つ一つの信頼を築いてゆかなければなりません。

(以下略)

 

http://www5d.biglobe.ne.jp/~kmj/koreanjp/jinken/nakami/jinkenkyoukaitoha/2002katudouhousin.html

 

(コメント)

「行政、企業、社会団体との関係が弱まり、ときには排除される事態も経験しました。そのため、差別事件との闘いにおいても、影響力の低下を余儀なくされています。また、運動を支える基盤としての財政状況も悪化し」とあるのは正直なのでしょうが、泣き言のような文言です。

 資料@のあるような事態が関係しているのでしょうか。

 

 

(参考)

 思い起こせば1970年代、解放運動では、対行政闘争というのは役所からお金を取ってくること、という認識がはびこっていました。

 民闘連(現在の在日コリアン人権協会)でも、この影響を受けて、差別をなくすために活動しているのだから援助しろ、と役所相手に銭呉れ闘争を繰り返していました。その時の活動家が言うには、役所がどこからどのようにお金を段取りするかはどうでもよい、役所がお金を出したという成果がほしい、ということでした。

 この時私は、役所からお金を貰おうとするなんて乞食と同じじゃないか、それが何故闘争なのか、と言って非常に怒られたことを思い出します。

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/04/29/346418

2006年9月8日記)

 

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